肺血栓塞栓症と診断されるまで
『肺血栓塞栓症』はググったところ、死亡率14%ぐらいの病気らしい。
重症になれば発作が出て病院にかかることなくそのまま死んじゃったりすることもあるらしい。
病気は早期発見に限る。早期発見だから今生きれている人も山ほどいる。だから、これを書いておこうと思う。一症例として、同じような誰かのきっかけになるかもしれないから。
水曜日。帰宅途中、歩いていると、息苦しさを感じる。
高地トレーニングをしている感覚。酸素がうまく取り込めていないのが分かる。
歩くのが嫌なので駅徒歩2分のところを契約して住んでいるのだが、それでも途中で休憩したいと思うほど。
家に帰ってじっとしていると治る。
木曜。同じように帰宅途中に息苦しくなる。これは、、もしかしてコロナ?と不安になる。
金曜。お弁当も作ってさあ出るだけだ!となったタイミングで少し体調に不安を覚える。在宅ワークに切り替える。家にいて動かないと大丈夫みたい。
土曜。ゴルフの打ちっぱなしの約束があったため体調に不安を抱えながらも行く。普段なら160球くらい打つところを50球あまりで終える。終わって焼肉を食べる。
日曜。一日中家にいる。
部屋で座りながら掃除やら洗濯物を畳んでいると、息苦しくて目眩がするようになる。どちらかといえば発作に近い。これはやばい、救急車を呼ばなくては、と考えたが近くにスマホがない。呼べないほどに動けず冷や汗がドバドバでる。死の危険を感じる。
20分ほど動けずその場で倒れているとなんとなく回復に向かう。
その後はワンルームでトイレに行くのすら息苦しい、目眩を感じるようになる。
月曜。在宅&時間休で朝イチ病院に行くことにする。
外に出て歩くと症状が出るかもと不安になったため、家からいちばん近くのかかったことのない病院へ牛歩で向かう。(初診でそのまま受診できることは日曜のうちに確認済み。)
レントゲンと心電図を撮る。
レントゲンでは異常は見つからず。
心電図は少しおかしい気がするが元々そういうクセの人もいなくもない、以前に撮っていた情報があれば、比べられるのだけど初診だから、、と説明を受ける。
おそらく精神的なパニック発作だろうとの診断を受ける。
死ぬかもしれないと思うほど息苦しくなる、症状が一致していることが一つ。
全ての外的な要因を潰し終えたら精神的な病気と確定になるそう。
家の中で発作が出たとき死の危険を感じたが、パニック発作では死ぬことはないと言われ、安心する。「なんだ死なないやつじゃん。」
アルプラゾラム錠という精神が落ち着く錠剤を処方される。発作時に飲んでほしい。これで良くなればパニック発作だというような説明を受ける。
心電図が気になるので木曜再検査と、その時前の健康診断の心電図の情報を持ってきてほしいと言われる。
コロナか肺系の何かか、得体の知れない病気への不安で苦しくなっていた部分もあったので、「パニック発作」という病名をもらったことで少し安心する。
メンタルの方かーい!と心の中でツッコむ。メンタルでここまで苦しくなるんや、、こういう人いたら絶対優しくしようと心に誓う。
火曜。相変わらず苦しく在宅にする。
水曜。少し調子もいい気がしたし、メンタルのことだし、このまま在宅してたら一生外に出れないんじゃないかという不安苛まれ、勇気を出して出社することにする。
電車内ではいつもより呼吸に気をつけ大きめに息を吸う。
無事に出社でき、自信に繋がる。
無事仕事を終え帰宅。最寄り駅の階段を登る最中、また息苦しくなる。
え?メンタルのはずなのに絶対運動中に苦しくなるのおかしくない?ていうかメンタルなら出勤前の方が発作出そうなのになんで毎回帰宅でなるの?と疑問に思う。
木曜。元々午後から歯医者で休む予定だったし、全休に変更して午前中月曜の病院に再診する。
発作とは日曜の救急車呼ぶか迷うくらいのことだから、歩いてるとき少し息苦しいでは薬を飲むほどか分からず、処方された薬を飲むタイミングはなかったと先生に伝える。
前2年分の健康診断の結果を持っていく。
前と比べてもやはり心電図がおかしいと指摘される。健康診断時は正常だったとのこと。
右脚のむくみを指摘される。
実は前月、右脚のむくみで整形外科にかかっていた。
歩き方が悪く平面で山登りするような負荷をかけている。(通常の人に比べて16%強ほどの負荷をかけて歩いているらしい。)『筋膜炎』との診断を受けていた。
初めて肺血栓という言葉を聞く。
右脚の血流が悪く血栓ができ、それが運ばれて肺にも血栓が入ってしまうという病気らしい。
まさか脚の腫れが息苦しさに関係しているなんて思いもよらなくて、わざわざ先生に言うことではないと思っていた。
すぐ大きい病院で検査してもらってと言われる。
今日は歯医者でホワイトニングなんで後日〜と断ろうとしたが、絶対今日行った方がいいと言われる。歯医者にキャンセルの連絡をする。
紹介状を書くのと、受け入れ先の病院に連絡してもらうため一時帰宅する。
電話が来る。
家から割と近い大学病院を紹介される。
タクシーで向かう。
問診と検査をしてもらう。検査項目は採血、採尿、心電図、レントゲン、MRI。
点滴を打たれる。血管が全然見えない体質のため3回打たれる。
肺血栓塞栓症です。検査したらそのまま入院してください。一時帰宅もダメですと言われる。入院期間は伸びたり減ったりするかもですが2〜3週間は見ておいてくださいと言われる。
「なんなん!死ぬ(かもしれない)やつじゃん!」と初めて会った先生の前で言う。
入院。
終わり。
みんなもちょっとでもおかしいって思ったら絶対病院行ってね!
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メロンソーダ色だったらいいのに
毎年、誕生日にはいちごが届く。
文字面だけみたらなんだかメルヘンで可愛い。
年によってはメロンのときもある。
私は東京で一人暮らしをしているのだ。さあさあ祝ってやらん!とも言いたげにいちごは4パック、メロンなら3玉届く。…まあ確かに『ちょっとだけ』を送るのも難しいかもしれないけれど……とてもじゃないが食べきれない。
送り主は父親の従妹、私からするとハトコである。(いちごやメロンは地元の名産)
そして、大問題なのがいちごもメロンもそんなに好きではないということだ。
食べれなくはない、1粒ならおいしいと思う、ケーキに乗ってるのも食べられる、でも喜ぶほどに好きではない。正直普通よりちょっと下くらい。なんなら調べてないけど多分メロンはアレルギーだと思う。量を食べると喉がイガイガしてくる。柑橘類なら大好きなんだけどなあ。
毎年、少しだけ食べて会社の人にあげている。会社の人達はとんでもなく喜んでくれるので、そうかあこういう反応だよなあと少し反省する。
30歳になった今でも、この事実をハトコに伝えられていない。
小学生の頃、近所に住んでいるおばあちゃんが居た。他人行儀だけれど父方の祖母の姉妹なのでれっきとした血縁者である。このおばあちゃんの介護に、岡山で暮らしていた娘が帰ってくることになった。冒頭のハトコである。
当時、10歳そこらの私はというと、田舎の小学生らしくとんでもなく暇だったし、コミュ力が大人に対しては振り切っていた。ちなみに同世代に対してはまるでダメだった、ていうか毎日男子とサッカーしかしてなかったので女子と遊んだ記憶が小5まで一切ない。
我が実家も信じられないほど田舎なんだけど、そのさらに山奥にあるおばあちゃんの家(こちらは親戚でもなんでもない野生のおばあちゃん)に結構な頻度で遊びに行ってはコーヒーとお菓子を頂きながらお喋りしたり、近所の高校生のお姉さんの家に遊びに行ってはジェンガなどをして遊んでもらっていた。思い返せばお姉さんは県内有数の進学校の制服を着ていた。数年後、自分も同じ制服を着て軍隊みたいに勉強させられたのを思い返すと、当時の悪行に震える。クソガキ邪魔すぎる。お姉さんが第一志望の大学に合格して幸せになっていることを祈るしかない。
クソガキでありマセガキでもあったので、前者に関しては、暇してるおばあちゃんの話し相手になっているなあ。ボランティア精神でいいことをしてるとすら思っていた。そんな自覚のある子どもは嫌だ。可愛げがない。後者は全くもって反論の余地もなく本当に申し訳ない。
そんな対大人限定のコミュ力おばけであったので、当然、ハトコが帰ってきたそのお家にも毎日のように入り浸るようになった。
ハトコが大好きで仕方がなかった。
ハトコは太陽みたいに明るい人だった。
美人だったしよく笑う人だった。人の悪口は言わないし、自分ならばムカッとしたりつらいと思うようなことも、意に介さず。笑い飛ばしていれば腹も立たないというようなことを幼い私に教えてくれた。(知っていることとできることは別物なのでそれから向こう20年そのようには生きれていない。)
旦那さんは信じられないくらい亭主関白で、1汁5菜、10時にお茶まで出させていた(のでクソガキの私は自分でやれやジジイと思っていた)けど文句ひとつ言わなかった。そればかりかそれを自分の心一つで楽しむ方法を知っていた。
田舎はジメジメした人しかいないので(そんなことはないこともないこともない)ハトコみたいな人は珍しかった。
そんな人、好きにならないはずがない。学校から帰ったらすぐさまおばあちゃんの家に行き、日が暮れたら家に帰るを繰り返していた。
よくもまあ人の家にあんなに毎日長時間居たな、ゲームだってないのに。あと親もよく止めなかったな。
結局、数ヶ月しておばあちゃんが亡くなり、ハトコは旦那さんの新しい転勤先の京都に行ってしまう。 (勿論おばあちゃん家通いもそこでおしまい)その後もなにかと気にかけてくれ、夏休みには何度か京都に呼んでくれた。出来て数年のユニバーサルスタジオジャパンにも連れて行ってくれた。
離れていても、一定のペースで連絡を取り合う間柄になった。
考えてみると、その頃から毎年わたしの誕生日には何か贈られてくる。30歳になった今日まで。
ただ、祝うことは簡単だけれどそれを毎年続けることの崇高さに気付いたらたまらなくなった。それも娘でもないちょっと遠いの親戚の子によ。
大人になってなお凄さを知る。
子供のときに一度尊敬して、大人になってまた尊敬した人は人生でこの人だけかもしれない。
血で性格が決まるだとか能力が決まるとか全く思わない派なんだけれど、この人と同じ血を引いていることは少しだけうれしい。
これを書きながら、ふと思い立ち、数年越しの勇気を出した。
この人から何を学んだんや、もっと良い言い方なかったんかいとしか言えない。
さあて、大人になったことだし、ふるさと納税の返礼品の贈り先をハトコのお家にするぞ。
都会っぽいものがいいって言われたんだけど、なんそれ。
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後日談というか今回のオチ
えっ、ちょ…… 「来年の」って言ったのに!!!!
— 蜜觜える (@3284_L) 2022年3月5日
あとやっぱり多い!多いって! pic.twitter.com/47W5i0XLpH
まだ一週間も経っていない。エリートリーマンもびっくりのしごはや振りである。
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隣人に渡す一輪の花
行きつけの美容院がある。
美容師の腕の善し悪しは正直わからない。
他の誰と比べてどうとかは知らないけれど、女の子を長年やっている割には自分の髪型に頓着がないように思う。
いつもオーダーは「セットしなくてもそれっぽく見えるように切ってください。」
(起きたら起きたままの髪で出かける。女子力。)
なにより、素人の私がなにかこうして下さいっていうよりプロに任せた方がいいとも思っているし。髪の毛が多いので、ボリュームを落としてください、でも梳きすぎると跳ねるからそれはいやだ、ぐらいは言うけども。
だから、見た目が気に入ったなあ、という感想よりも、この1ヶ月ストレスなかったなあ、、、が自分にとっては大事。
ていうか美容院でいい感じの髪型にされても、お洒落な髪型は再現性が低いのでその日しか良くない。家でシャンプーしたら大体魔法解ける。
意外とそんな私の要望に沿った美容師さんに当たるのは難しかったりする。
会話の相性もある、話しても話さなくてもいいんだけれど、居心地の良さが重要。前の前の前くらいに一切話さない職人気質な人に切ってもらっていたこともあるけどそれはそれで心地が良かった。すごい喋るくせにおもんない人は流石に嫌だ。(言わなくていい)
1年半前までしっくりくる美容師さんに会えなくて色んなところを放浪していた。
ようやく辿り着いた今切ってもらっている人は、一応指名させてもらっている。
カラーの遍歴とか好みを知ってもらっている人の方がやりやすいし、美容師さんも指名のバックがあったほうがきっとやる気が出るしね。技術には是非お金を払いたい。
その人を指名するようになったきっかけは、初めて切って貰った時、最後の最後までミリ単位で仕上がり気にしているところにプロ意識を感じて。もちろん仕上がりも良かった。そして翌日から髪に対してストレスがさっぱりなくなった。
でもそんなの劇的に違いがわかるものかといったらそうでもなくて、ふと気づいたら「そう」だったのでその人の功績だって素人の自分には理解できていなかった。だから次から即指名したわけじゃなくて(その人関係なく元々通っている美容院だったので)指名なしで違う人に切ってもらった後、違う……やっぱりあの人よかったんや!!と失って気付く幸せ的な感覚に陥って指名しだした。
思い返せば、初回の私の喜びようったらなかったとおもう。
めっちゃいいです!とかキャッキャ言っていた気がする。
それから今日までその人にもう10回くらいは切ってもらっている。
美容師難民だった私は漂流ストレスからも解き放たれていた。
そう思い返したとき、ふと気づいた。
私、あの時みたいに、「良い」をこの人に伝えているか?
毎回、いいです!とか完璧です!とかありがとう!の一言は言っているけど、初回の時のように喜んだり褒めたりしているか?
当たり前に、いい髪型を提供してもらって、慣れていないか?
いいと思っていても、今更褒めるなんて、と思っていないか?
急にそんな不安に駆られた私は、恥ずかしいけれど改めて伝えることにした。
「いつもめちゃくちゃいいと思ってるけど毎回きちんと伝えれていなかったかもしれない。色んな人に髪型を褒められるし、髪質も良くなっている気がするし、ズボラな自分でも家帰って髪乾かすだけでそれっぽい髪型になっているし、色味も最高だし毎回助かっている。ありがとう。」
するととても喜んでくれた。
ジョーク混じりに
「仕事で余裕出来たから、心に余裕出来たね(笑)」
と何もかもお見通しだった。
1時間ほど前に雑談で会社で働きやすい部署に転籍になって最高という話をしていたのだ。
せやねん、人間、気持ちに余裕がないと人に優しくなど出来ないのよ。
余裕をどうやって作るかはまた難しい話なんだけれど。
今世界情勢がとんでもないことになっているけれど、私にできることは余裕がある時に周りに少しばかりの優しさと感謝の種を蒔くことだな、と思った。
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14+13+3
30歳になった。
10代の自分は自分のことをロックスターだと信じて疑わなかったので、当然27歳になったならば、なにかしらの理由でポックリしんじゃうんだと思っていた、のにもかかわらずだ。28歳はコロナが大流行している間にだって普通に訪れたし、あろうことか存在しないはずの30代に突入しちゃうのだ!すごい!全然ロックスターじゃなかったよ!
小さい頃思い描いていた自分とはずいぶん違うんだけれど(こんなにも違うことがあるのか)元・自称ロックスターの自分は今が結構気に入っている。というか生きれば生きるほど自分が気に入ってきている、が正しい。
だって、自分が楽しめるだけのお金はあるし、趣味もあるし、仕事も楽しい、気の許せる友達もいる、これだけ恵まれたことがあるかね。最高だ。と言っても多分小さい頃の私にはさっぱりわかんないんだろうな。大人になるとはこういうことだ。
思春期真っ只中の自分は、世界で一番不幸なのは自分だと信じて疑わなかった。そして人間誰しも人生を通しての幸せの総量は決まっている、という倫理観の持ち主だった。
(なんかそんな歌あったなあなんだっ…ぐらいで【完璧とちゃう人生の収支プラマイ・ゼロだなんてばホントかな?死ぬまでに使い切る運の数せめて自分で出し入れをさせて】と頭の中のTMが歌ってきた)
要するに、大人になったら今辛い分とんでもない幸せが待っているんだと奮い立たせてなんとか生命を維持していた。(これも今思えば取るに足らないことに悩んでいただけなんだけれど当時はとんでもなくとんでもない問題だった。)
そんな小さい頃の自分が見たら、今の幸せは到底納得は出来そうにないささやかな幸せだ。
でも、小さい頃の自分へ声を大にして言いたい、これは妥協ではない。
満ちて、足りている。
進化というか退化というか。色んなことを知れたお陰であるし色んなことに鈍くなったせいでもある。ある日突然モヤが晴れたように視界が開けた感覚もあるし、ゆっくりじっくり熟成した秘伝のタレのように少しずつ味わいが変わってきた感じもある。
この感覚をうまく言葉にできないんだけれど、幸せを感じることのできる身体になったことがとっても幸せで、これを手に入れるまでそれなりの時間が必要だったんだろうなきっと。小さい私が頑張ってたのも無駄じゃないんだぜ。だからこんなもんかいなんて言わないで。頑張ってくれてありがとね。ほんとに幸せだよ。
あと、大人クッソ楽しい。何やっても基本怒られないし。金に物も言わせれるし、人助けだってできる。自己責任サイコー!
これからも私は私を更新していくから、これからももっと幸せになれそうだ。と世界中の不幸を集めたような少女が近い将来おもうんだからなんとも救いがあるよね。
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